微熱と汗



―夏の夜編―



 夏も終盤に差し掛かったある日の夜のことだった。

殿、大丈夫でござるか?」
「はい、もうすっかりよくなりました」

 ならよかった、と幸村は微笑んだ。 普段ならこの時間にしかも女人の寝室に入ることなど言語道断ありえないことだったのだが。 が風邪をひき高熱を出したと聞いて 仕事を出来るだけ早く終わらせて駆けつけたが、このような時間になってしまったらしかった。

「申し訳ありません、一日お休みしてしまって」

 は本当に申し訳なさそうに視線を落とした。 ずいぶんましになったらしいがそれでもまだの頬はほんのり赤く染まっていて、ずいぶんとしんどそうだと幸村は思った。 幸村は見舞いなのだから寝たままで良いと言ったのだが、そういうわけにはいかない、とは布団の上に座っていた。 なんだか邪魔をしてしまっているのでは、と幸村はすぐに出ようとしたが、 が今日一日話し相手がいなかったので嬉しいですと言ったため、 彼女との会話をしばし楽しむことにしたのだった。
 申し訳なさそうに謝るに、幸村は思い出したように笑って言った。

「今日は殿の代わりに佐助が某の朝餉を作ったのだが」

 幸村は困ったように笑った。

「やはり殿の作る料理には敵わなかったでござる」
「…ありがとうございます」
「いや、某は正直な感想を言ったまでだ」

 まっすぐな言葉がの心を掴むような心地だった。 それでもやはり少し恥ずかしくてが照れたように笑うと、 それにつられたのか幸村も同じように笑った。

「でも、そんなことおっしゃると佐助さまが怒りますよ」
「そうかもしれぬな。ああ、そういえば某違うことでも佐助に怒られたでござる」
「…何をなさったんですか?」
「訓練を終えた後着替えるための着物を探していたら、いつの間にか散らかしてしまっていたらしく…」

 幸村は苦笑して語尾を濁らせた。
 基本的に幸村の身の回りの世話をすることを許された女中はしかいないため、彼女以外で幸村の世話役が出来るのは佐助程度のものだった。 それ故に、が休みとなれば幸村がなんらかのことをやらかしてしまうのが常であった。 その度に被害を被るのが佐助であろうことはも簡単に予想ができることだ。
 は自分が予想していた通りになったので、笑ってしまった。

「佐助さまには謝っておかなければいけませんね」
「ん?何か言ったでござるか?」
「いえ、何でもありません。ひとりごとです」

 の呟きに幸村は頭に疑問符を浮かべたが、 元より物事を深く考える方ではなかったこともあり、すぐに疑問を打ち消した。 その様子を陰ながら窺っていた佐助が大きくため息をついたであろうことは想像しやすいことだ。

 げほげほ、とが咳き込むと幸村は心配そうに彼女の背中をさすった。 その手のひらの温かさが妙にを安心させた。

「すみません。幸村さまにこのようなことをさせてしまって」
「いや、これしきのこと気にすることでもない。それに、」

 幸村はその手のひらの温かさを感じさせるような暖かな笑みを作った。

「某が風邪をひいた時、殿にこうしてもらって嬉しかった」
「…はい」
「某が殿にしてやれることはこれくらいしかないが」
「いえ、とても嬉しいです。ありがとうございます、幸村さま」

 手のひらのぬくもりとこころのぬくもりが、自然とに笑顔を作らせた。 その表情に幸村はいくらか安堵を覚えたが、 の顔がほんのり赤く、額には汗をかいているのを見るとまだとても元気そうには見えない。 夏ではあるが今は夜で日中よりは暑さはやわらいでいるというのに、 その割にはは熱そうだった。 まだ微熱があるらしいことは彼女の口から聞いたが、幸村はとても心配だった。

殿が早く元気にならぬと某は何もできぬな」
「それなら…ますます早く元気にならなくてはいけませんね」
「うむ、早く元気になってくだされ」

 そう言うとすぐに幸村は立ち上がって颯爽と部屋の襖に手をかけた。 は、はいと嬉しそうに微笑んで告げて、幸村のその後姿を見送っていた。 襖を少し開けて、幸村はの方へ向き直った。

「夜分遅くに失礼した」
「いえ、とんでもないです。ありがとうございました」

 の返答を聞くと幸村は微笑んで見せて、そして外へと踏み出した。 ぴしゃりと襖が閉まる音がして、同時に夏の夜風が幸村の頬を撫ぜた。 その風がつい先日に比べれば幾分か涼しくなっていることに気がついて、 もう秋がやってくるのだとしみじみと感じる。
 が元気になったらこのことを教えてやろう、と幸村は考えて、 誇らしげに自分の寝室へと歩き始めた。  



(08.07.22)
(うむ!やはり殿の飯が天下一品でござる!)
(…俺様もう絶対旦那にご飯作ってやんない)

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