濃厚な夏の日



 梅雨も完全に明け、夏の日差しがさんさんと身に刺さるようだった。 家の中では確かにそれからは逃れられるかもしれなかったが、それでも夏の蒸し暑さからは逃れることは出来なかった。 額から何度汗が伝っただろう。 そして、それらを拭う暇もなく忙しなく家中を動き回るの頬はかすかに、火照っているのだろうか、色づいていた。
 使いこなされてもはや物や衣服が安置されている場所はの頭の中にきっちりと把握されているのだろう、 彼女は戸惑うことなくタンスを引いては目的のものを取り出しまた違うタンスを引くという行為を 何度も繰り返していた。 目的のものが揃うなり、足早にその場を去る。 の手に真っ赤な着物と真っ白な手ぬぐいが握られて。
 長い廊下にとんとんとの軽快な足音が響き渡る。 蝉の鳴き声もそれに負けじと繰り替えされていた。 まるで双方、競っているかのように忙しなく。 しかし、それはの歩みが止まったことで終了となった。

「こんなところにいらしたんですね」

 が声をかけた先、身に纏った衣装と同じくらいに顔が火照って赤く染まっている人物が縁側に腰掛けていた。 声の主に気がつき、嬉しそうにそしてどこか情けなく、幸村は微笑んだ。 はすぐに彼の傍に駆け寄って、先ほど用意したばかりの手ぬぐいで幸村の額に吹き出ている汗をぬぐった。

「ああ、すまぬ。居間に殿の姿が見当たらなかったので、ここに着てみたのだ」
「申し訳ありません、すぐにお出迎え出来ずに…」
「いや、気にしないでくれ。某の勝手でここへやってきたのだ」

 相変わらず女中にでさえ優しい自分の主に、はほっと息をつく。

「やはりここは心地良いでござる」
「幸村さまは幼い頃から縁側がお好きでしたね」
「ああ、ここは幼い頃から何も変わらぬ」

 そうですね、とも頷いて幸村の額から流れる汗を拭いていた手を止めて、縁側からの景色に目を向けた。 幼い頃からほとんどと言っていいほどの同じ時を過ごしてきたふたりの目に映るのは、 変わらない緑豊かな城の庭先だった。 星空を眺めようと小さいながら夜更かしをして縁側でふたり並んでいたあの時の楽しい思い出の中でも、 幸村が大きな失敗をしてお館様から叱られた後、落ち込んでこの場所で肩をおろしていた時にも、 目の前の景色はおそらく四季以外で変わっているところはない。 そのことがなんだか懐かしく嬉しいものだとふたりは微笑む。
 ふいに、は自分の手元に用意していた彼の着物を思い出して、 幸村に着替えるよう促した。

「お着替え、お手伝いしましょうか?」
「いや、某一人でできる故。それより、久方ぶりに殿の手料理が食べたいのだが」
「分かりました。何か食べたいものはありますか?」
「うむ、では…」
「団子はだめですよ。私が佐助さまにしかられます」
「…殿には某の考えは相変わらずすべて見通し済みなのだな」

 幸村は困ったように笑って、食事の品目をに任せる旨を伝えた。 目の前の景色も相変わらずだが幸村も幸村でまた幼い頃から変わっていない、 とは心の中で思った。 確かに彼は外見的に言えば、身長もとても伸びたし体つきも男らしくなったが、 への態度、というよりは彼の純真さは昔からまったく変わっていない。 それを、はなんだか嬉しく思うのだ。

「…でも、そうですね」
「ん?」
「久しぶりですし、多少のわがままは許されるのかもしれません」
「…殿の優しいところも相変わらずでござる」

 幸村は嬉しそうに笑った。

「食後のお楽しみに団子も用意しておきます」
「うむ、楽しみにしている!」
「はい。佐助さまの分もご用意させていただきますね」

 は彼が忍んでいるだろう屋根裏へと目をやってそう言った。 気配も完全に消していたはずなのにぴしゃりと居場所を当てられて、 佐助は少々複雑だったがには何も敵うまいとため息をひとつ。 慣れとは恐ろしいものだと佐助はひとりごちた。

「幸村さま、早いうちにお着替えなさってくださいね。風邪でもひかれたら大変ですから」
「この幸村、これしきのことで風邪なぞひきませぬ」
「そんなこと言って、以前高熱を出されたのはどちら様ですか」
「…殿、昔のことはなしでござる」
「風邪が理由で戦場で怪我でもされたら困ります」

 悲しそうに、は眉をひそめて言った。 以前修行だと言い張って、真冬に上半身をさらけ出したまま鍛錬をしていたことがあった。 幸村とてその程度で風邪をひくような柔な身体ではない。 しかし、その後汗をかいた身体のまま縁側で寝そべり、そのまま熟睡してしまって、 結果幸村人生初の高熱を出すほどの風邪をひいてしまうこととなった。
 運悪く次の日には戦があり、有無を言わせず参戦となり、 案の定いつもより動きが鈍い身体故に大きな怪我を負ってしまうこととなった。

「今回の戦ではお怪我はなさいませんでしたか、幸村さま」
「多少のかすり傷はあったが、大きな怪我は負っておらぬ」
「そうですか…。安心しました」
「いつも心配をかけてしまってすまぬ」

 いいえ、と首を振ったは安心したように笑った。

「それでは、お食事の準備をしてまいります」
「うむ、よろしく頼む」
「はい。幸村さまも、くれぐれも早くお着替えなさってくださいね」

 幸村が苦笑して頷いたのを見た後、は立ち上がろうとして、ふと止まった。 そして、思い出したように幸村の前に座り直して微笑んだ。

「幸村さま、おかえりなさいませ」

 言うのを忘れておりました、といたずらっぽく笑ってみせたに、 幸村も嬉しそうに微笑み返した。 やっと自分の居場所に帰った気がして、気分が不思議と和らいだ。 今度こそ立ち上がって食事の準備へと向かったの背を見送って、 彼女に注意されぬようにと用意されていた着物に手をかけた。
 やっと幸村に安息という名の日常が戻った、濃厚な夏の日。



(08.07.20)
(佐助!御主も飯の前に着替えておけよ!)
(旦那に言われる前に着替えてますってば!)

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