屋根から流れ落ちてくる雫たちを背景に、ヒノエの瞳には懐かしい思い出が映し出されていた。 そう、あれはちょうど今日のような雨の日。 ヒノエに守るべき存在ができたのだ。 雨の日のメモワール 「ああ、ヒノエ。丁度良かった。君に頼みがあるんです」 誰がそんな安っぽい笑顔に騙されるものか。と、庭から目を外したヒノエは呟くようにひとりごちた。 幼い頃から幾度と無く、その笑顔と雄弁に長けた憎たらしいほど見事な話術にひっかかる哀れな様を 見てきた者の身としては、どうにも安易に頷くことはできない。 ヒノエは、叔父である弁慶を怪しげに見やった。 「あんたの願いなんて叶えてやる義理はないんだけどね」 「そうでしょうね。君が僕の言う事を素直に聞くなんて思ってませんよ」 「だったら最初から頼まなければいいだろ」 「まぁ、そうも言ってられませんからね。さんのことなら君の方が詳しいでしょうし」 、と聞いて微かに反応を示すのは、もはやヒノエの癖となっていた。 あまり物事に執着する方ではない彼にしてはとてもめずらしいこと。 それを交渉の手立てとして利用する弁慶は、もはや“さすが軍師殿”と言うより他ない。 「…で、がなんだって?」 「望美さんが屋敷中を探し回ったそうなんですが、見当たらないみたいなんです」 「ふぅん。それで、俺に雨の中探し回って来い、と」 「そうは言ってないですけどね。ただ、心配ですから」 「そのあんたの遠まわしな言い方が俺は昔から嫌いなんだよ」 「そうですか、すいません」 やんわりと笑って返した弁慶を見て、ヒノエは颯爽と立ち上がった。 理由なんて、言わずもがな。 あまり遅くならないようにしてくださいね、とすかさず弁慶はヒノエの背中に声をかけた。 それに面倒くさそうに反応したヒノエは、振り返る仕草はまったく見せずにひらひらと手を振った。 普段の彼も、これくらい簡単に扱えるものであればもう少し可愛らしい甥であっただろうに。 そんなことを思いながら、弁慶もヒノエの後に続くようにして自室に向かった。 の行きそうなところなんて、大方予想がつくもので。 まだこちらの世界に来て間もない彼女が、ふらふらと遠出をするとも思えない。 そうとなれば、屋敷周辺であると目星をつけたヒノエが彼女を見つけ出すのも、ほんのわずかな時間であった。 「無断で外出なんて、関心しないね」 「ああ、ヒノエ」 ふんわりと笑って自分の名を口にするにはどうにも文句は言えない。 こんな雨の中、ずぶ濡れになってまで人探し、なんて普通なら文句の一つや二つは出ているというのに。 どうやら、には人を和ませる力があるようだ。 梶原邸を出て少ししたところにある大きな木が、うまいこと彼女を雨から凌いでいて、 その横にヒノエも腰をおろした。 「何かあったのか?」 「ううん。何にもないから、出てきちゃった」 は、力なくえへへと笑った。 「望美、心配してるかな?」 「ああ。弁慶がそう言ってたぜ」 「そっか」 次第に笑顔は消えて、は空を見上げた。 まるで自分の心の中を表しているようだ、とは思う。 こんなことで落ち込んでいては、この先望美の力になるどころか足手まといになるというのに。 自分の幼馴染が、龍神の神子として自分に告げた悲しい未来。 それをどうにか変えなければいけない、どうか力を貸してくれ、と言われたばかりだというのに。 がそんなことを思っているなんて、もちろんヒノエには分かるはずもなかったが。 「ヒノエ、私がんばるね」 ヒノエは何故とは聞かなかった。 彼女のその強い瞳を見ていたら自然と言葉は消えていったのだ。 今日雨の庭先で見た懐かしい彼女の残像はもうどこにもなかった。 ヒノエに守ってやらねば、と強く思わせた不安げな彼女はもういない。 「まったく頼もしいね、オレの姫君は」 それでもへの興味はどうやら褪せることなく、もしろ色濃く浮かび上がっているように思えた。 もしかすれば、もう自分の助けなどなくても彼女は歩き続けることが出来るのかもしれない。 でも、彼女を守るこの自分の役目だけはどうにも譲れそうにない。 なにもかもを洗い流すかのように雨は降り続けていた。 ただ、ヒノエのこの色褪せることないモノだけは流すことはできなかったようだった。
(07.10.20) |