何故だか人気の少ない道を歩くのだけは嫌で、熊野でも一番の賑わいをみせる勝浦の市場を私はひとりで歩いていた。 魚や野菜を売るおじさんの声、めずらしい交易品を揃えた店の賑わった音が木霊する。 それらは私をひどく落ち着かせてくれるのだ。
当ても無く歩き続ける。 それはこの夏の日差しを浴びながらするには少し無謀すぎるように思う。 だって、こんなにも私は汗だくだ。 でも、なんだかよくわからないも不安感が押し寄せてきて、訳も分からないままに部屋を飛び出した。 部屋に閉じこもったままだと、大切な何かを失ってしまうような気がして。

「放浪癖があるなんて、とんだじゃじゃ馬舞姫もいたもんだね」
「…ヒノエ」

人ごみの中でさえ冴える朱色と、人を惑わすような低い声が私の歩みを遮った。 ヒノエは面白いものを見つけた、とばかりにしげしげと私の顔を見つめている。 こういうところは、幼い頃からなんら変わっていない。 変わったところと言えば、少しばかり賢くなって頭を使うようになったことだとか、 身に纏う彼のフェロモン(望美からこの言葉を教わった時に、まさに彼を形容するにぴったりの言葉だと思った)が 異様にあたりの女たちを惑わすようになったことだとか。 言ってしまえば、私にはなんにも関係が無くて、この身に被害を被ることなどあるはずがなかった。
ヒノエは私の嫌うことをめったにしない。私、というと少しばかり誤見だろうか。 幼馴染の私と敦盛には、と言っておこう。 なぜなら彼にとっての私たちがそうするに値するくらい大切なものだから、だそうだ。

「この間献上した読み物はつまらなかったかい?」
「ううん、そんなことないけど」
「それなら何か気に入らないことでもあったかい?」

違う、違うのだと首を振ってみせる。すると、途端にヒノエは困ったような笑みを見せた。 彼は人の感情を察知することに長けているが、時に鈍感なところがある。 例えば幼少時代のことになるが、私のいたずらな冒険心を満たして欲しいと望めば、 くじらを捕って見せてくれた。 しかし、私は船に乗せてもらえずに船着場で待ちぼうけ。 ヒノエは本当に私のことを分かっているようで分かっていない。

「違うよ、ただ久しぶりに勝浦に来てみたかっただけ」
「…変わってないね、は」

ヒノエはひとつため息をついて、それから私の腕を引いて歩き始めた。

「まったく、お前が屋敷から抜け出したと聞いた時は肝が冷えたよ」
「私、そんなに心配されるほど弱くないわよ」
「それは知っているさ。それでも、心配になるもんなんだよ」

少し汗ばんだヒノエの大きな手のひらから熱が伝わる。 きっと、すごく心配していたのだろう。 そして、私を必死で探していたのだろう。 そう思うとなんだか少し申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、 私にだって言い分はある。 もう、私たちは子供ではない。 ヒノエだって立派にこの熊野の地を治めているし、 敦盛だって立派な武人として望美の手助けをしているわけだし、 私だってもう高貴な人に認められるほどの実力のある舞手となったのだ。 それに、私は少しだけだけれど武術も教えてもらった。 望美のよう剣を振るうわけではないけれど、少しなら戦えるのだ。

「大丈夫だってば、ヒノエったら心配性すぎる」

私が顔を顰めて言うと、ヒノエは軽快に笑った。

「すまないね。でもしょうがないさ、こればっかりは」
「私は心配されるだけの女じゃないってば」

私の一歩前を飄々と突き進むヒノエの手を、私は振り払って言った。 そんな私に、ヒノエはおどけて「ああ、怒りっぽいところまで相変わらずだね」なんて言うものだから、 彼の脳天に天罰とばかりに一発お見舞いしてやる。 痛いと文句を言いながらも私の前を歩き続けるヒノエがすごく恨めしい。 少しだけヒノエとの距離が開いて、目の前に見える広い背中はとてもたくましく見えた。 思わずすがりたくなるほどに、けれど、私はそうしたいわけじゃない。 ヒノエの隣で肩を並べて歩きたいのだ。 それは昔から伝わることの無いことで、今もずっと変わらないこと。

「ねぇ、私を置いていかないでよ」

賑わう町の騒音にかき消された私の声が、ヒノエに届いたのかはわからない。 ああ、いつも都合良く私の一番の願いだけは聞き入れない彼の耳に、届けばいいのに。 ただ隣にいたいだけ、それだけ叶えてくれさえすれば他は何もいらない。 そうしたら、この正体も知れぬよくわからない不安に駆られることだってないはずだから。




090312. 何かが弾ける音がした // Rachael
大切だからこそ交差する二人を書きたかったけれど、撃沈した。