そう、それは何かに変えられるようなものではないのだ。


やさしく殺して、


世界をあざむいて



「綺麗すぎるな、俺達の姫君は」
「望美のことですか?」

 龍神の神子御一行は熊野へと訪れていた。 もう少しすれば温泉なんかもありますよ、なんて弁慶が言えば望美は然り朔までもが喜び、 源氏の総大将である九郎の優しさもあってその場所へ向かっている途中であった。 いつもなら先陣を切ってその華やかな場に身を寄せる彼、ヒノエはそのにぎやかな集団と少し距離をとっていた。 もちろん、彼の右腕とも呼べるも同じく、である。

、敬語。俺とお前は婚約者、なんだろう?」
「…それ、結構無理があると思います」
「幼い頃からの付き合いだ。俺の嘘に付き合うのも慣れただろ」
「それはそうですけど、敬語はさすがに…」
「昔は敬語の方が慣れなかったくせにね」

 くつくつと笑う主がどうもには不自然でならなかった。 それは熊野に助力を頼みに行くと決定したときから。 もちろん、誰もそんなヒノエの不自然さには気がついていないはずだ。 (叔父である弁慶はどうにも計り知れないが。) これは彼の右腕としての勘であるし、幼友達としての確信でもあった。
 京に潜伏している間でさえ片時もを傍から離さなかったヒノエは、絶大なる信頼を彼女に置いていた。 だから、こうして八葉として望美の傍にいる時でさえ彼女を同行させているのだ。 仕事の相方としてだけでなく、幼友達としてお互い気を許しているからこそである。 ヒノエの突拍子もない嘘でさえも見抜ける(さすがにヒノエの婚約者として紹介されたときはも驚いたのだが。)は、彼の表情がどうにも笑ってるようには見えなかった。

「望美がどうかしたんですか?」
「いや、なんでもないさ」
「さっき私、ヒノエの嘘には慣れたと言いませんでしたか?」
「まったく、お前は弁慶より嫌な奴だよ」
「だったらさっさと切り捨てればいいでしょう」
「…お前は本当に嫌な奴だ」

 ふいに、手首を掴まれる。自然と歩みは止まった。
望美たちの姿はだんだんと遠ざかっていく。

「俺がお前を手放せやしないって分かっててそんなこと言うんだろう」

 いつも自信に溢れたヒノエの緋色の瞳が頼りなく揺れる。 ああ、彼のこんな表情はいつぶりだろうか、なんては悠々と考えていた。 そう、彼がこんな表情を見せる時は昔から決まっている。 熊野のことを考えている時だ。
 は分かる人には分かりやすいヒノエの表情を見て、 ふわりと笑った。 ヒノエはその彼女の笑みが好きだった。 何もかもが変わっていく中で、唯一変わらないその笑顔が。

「熊野のためとはいえ、仲間に正体を明かさないなんて姫君にとっては嘘をついていたに過ぎない。 それなのにあいつは他の奴らと変わらない信頼を俺に寄せてるんだぜ?」
「それで綺麗すぎる、ですか」
「ああ、そうさ。俺にしては単純だったかな」
「いえ、あなたらしいと思います」

 はヒノエの手のひらに自分のそれを重ねた。 そして、軽く握って歩みを促す。 まるで幼い頃のように。

「私なんかが政に口を出していいのかわからないですが…」

 は戸惑いながらも、そっと言葉を紡いだ。

「正直に言ってみればどうでしょうか。あなたのことも、熊野のことも。 望美ならきっと、分かってくれます。その上で、あなたを許してくれると思いますよ」
「確かに姫君は賢いぜ?でも、頭で分かるのと許すのでは違う」
「私は、望美を信じてますから」
「お前は相当姫君にお熱だな。妬けるね」

 ヒノエはに握られていた手をきゅっと握り返した。 の言葉は、まるでこの手のひらから伝わってくる暖かなぬくもりのように ヒノエの心に染み渡っていた。

「望美にお熱なのはどちらでしょうね。婚約者としては悩みの種です」
「ふふっ、本当に悩んでくれているなら嬉しいんだけどね」
「ヒノエといると悩み事はつきませんよ、本当に」
「それなら悩み事を減らすように尽力しないといけないね」

 自然と足取りは軽くなっていた。 それ故に、望美たちの姿が先ほどよりも近くなっている。 がやがやと仲間の声が聞こえてきた。 どうやら相変わらず九郎と望美は些細なことでの言い合い (この二人は婚約者、ということなので痴話喧嘩の方が正しいのだろうか。)をしていて、 それを苦笑しつつも見守る景時や弁慶はそれでも楽しそうだった。 いつもと変わりないそれに、ヒノエはささやかな安堵を覚えた。

「そう思っているなら、自分を殺すことを控えてくださいね」
「なぜだい?別当としては当然のことだと思うけど」

 はもう一度困ったように、それでもふわりと笑ってみせた。

「本当のあなたを見つけ出すのが一番大変なんですよ」

 は、早く行きましょうと望美たちの方へヒノエを引っ張って、仲間の方へと歩みを速めた。 考えてみれば、彼女だってヒノエと変わらない立場であったのだ。 水軍の一員であるヒノエを補佐していて、婚約しているなんてまったくの嘘だ。 実際は、熊野別当を補佐していてしかも別当の右腕とまで言われる存在。 嘘をついているのは彼女も一緒であるというのに、彼女は強かった。

 そんなの強さに幼い頃から甘えてきたのはまぎれもなくヒノエだ。 その強さは彼女の強さでもあり、ヒノエの強みでもあった。 彼が強くいられるのは、然るべき時にが本当のヒノエを見つけ出して甘やかせてくれるからだった。 だからヒノエはを手放すことはできないし、それを彼女は分かっている。

「お前にはなんでも分かってしまうんだね」
「幼い頃からの付き合いですから」
「でも、俺がお前を手放せない本当の理由は分からないだろう?」
「わかりません、ね。本当の理由ってなんですか?」
「ん?それくらい秘密にしとかないと、俺はただの情けない男になってしまうよ」
「今でもそう変わりないと思いますけど」
「おや、手厳しいね。俺の姫君は」

 絶対に悟られてはいないだろう。 この偽りの婚約を、いつの日か本物にしようなんて考えは。
 今は幼い頃から変わらない愛を伝えるときではないから、 そのときまで俺はに分かることのないたったひとつの嘘をつき続けるのだ。

(おまけ)
「なんでお前はいつもそうなんだ!」
「九郎さんこそ!」

 激しい口論は未だ衰えを見せない。 当人同士だって疲れるであろうにその勢いは止まることを知らないようだ。 それにだんだん呆れを通り越して疲れてきたのは周りの面々だった。

「こちらも婚約者同士だというのに、この違いはなんでしょうね」
「だよね〜。息はぴったりなのに、どうしてこうも反発しちゃうのかなぁ…」
「まぁ、これはこれで一種の愛情表現なのかもしれませんね」
「そうだね。俺もそう思うことにするよ、弁慶」

弁慶と景時の苦労をよそに、二人の口論はますます勢いを増すのであった。


(08.01.20)
ひとつくらい秘密があったっていいだろう?
お題提供サイトさま:Rachael