雲のようなふわふわとしたつかみどころのない、そんな女。それがチハヤの、彼女に対する印象だった。

目の前にいる彼女はとても人当たりの良い笑顔を浮かべていて、それがなんだか無性に苛立つ。 彼女とチェレスタ教会前の広場で初めて出会ったときも、確か同じように思った。 あの時初めて交わした会話で、彼女がチハヤを好印象に思うことはまずないはずであった。 しかし、チハヤを見つけた目の前の彼女、ヒカリは決して嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉しそうにチハヤにかけよってきた。


「こんにちは、チハヤくん」


あまりにも彼女の挨拶が自然で、思わず眉間に皺が寄った。 挨拶を返さないのはポリシーに反するため返答したが、きっと愛想の悪いものだっただろう。 それでも彼女は笑みを崩さない。


「そうだ、この間アルモニカに行ったの。素敵なお店ね」


早くチハヤくんの料理が食べてみたい、と続けた彼女はきっととんでもなく鈍感な人間だろう。 そうでなくては、こんな態度の悪いチハヤを見て世間話を続けるなんてありえないことだ。
このチハヤの態度は、彼女に特別な(つまりキライだとか、そんな悪い意味での)感情があるからではない。 誰に対してもこうなのだ。 だからこそ、チハヤはこのまちでも少し近寄りがたい存在であった。 それなのに、彼女はチハヤのテリトリーになんの戸惑いも見せずに入り込んでくる。 今だってそうだ。 なんの反応もしていないというのに、彼女は世間話をやめようとしない。 こんなこと、チハヤにとっては初めてのことだった。


「僕、親しくもない人と話すの疲れるから好きじゃないんだよね」


しん、と静まり返る。かまわずチハヤは続けた。


「どうして君は僕にかまうんだい? 君が話しかけてきたって君が一方的に話しているだけで、大してかまってるわけじゃない。 僕にかまったところで意味ないだろう」
「チハヤくんは私のこと嫌い?」


きっと泣くか怒るかするだろうというチハヤの予想に反して、彼女は困ったように笑って言った。
こちらが質問したはずなのに質問で返されてしまって、どうにもむず痒い気持ちになる。 また、質問の意図も図りかねる。 まるで宇宙人でも相手にしているかのような気分だった。


「それは僕の質問の答えになっていないよね」


チハヤは苛立ったように返したが、彼女はチハヤから視線を逸らさない。 普段であれば先に逸らしてしまうはずの視線を、チハヤは何故か逸らすことができなかった。
少しの間、二人は口を開かなかった。 長い沈黙に感じたが、きっとそれは一分にも満たないほどの時間だっただろう。 その沈黙を破ったのは彼女だった。


「私は、チハヤくんの親しい人になりたかったの」


ようやく視線が外れたと思えば、彼女は肩をすくめて笑った。
胸が、ざわりと騒ぎ始める。


「そうするには話しかけないと始まらないでしょう?」
「それはそうかもしれない。でも、普通こんな冷めた反応されたら諦めない?」
「確かに冷たい反応だったかもしれないけど、嫌われてはいないと思ったから」
「どうして?」


どう考えてもチハヤの言動や行動は、彼女を好いているものではない。むしろ逆に思われるだろう。 それなのにこうも前向きな発言が出来ることが不思議だった。 だからこそ、彼女が何故そう思ったのかが知りたかった。


「チハヤくんなら嫌いなら嫌いってはっきり言いそうだもの」


あっけらかんと言い放った彼女の言うことはまさしくその通りで、そこで初めて、チハヤは彼女が決して鈍感でないということを知った。 むしろ、彼女は聡い人なのかもしれない。
チハヤは声をたてて笑った。


「そんな僕と仲良くなれると思うかい?」
「ええもちろん」


彼女はふわりと笑った。

それを合図に、チハヤが踵を返す。


「さっきの答えだけど、」


嫌いじゃないよ。

彼女を振り返ることなく発した小さなチハヤの呟きが、彼女の耳に届いたかどうかは分からない。
けれど、きっとこれが、彼と彼女のはじまりなのだろう。




120808. 始まりは、いつもここから // ふりそそぐことば
人見知りのテリトリーに入るにはなにかと苦労がつきもの。