扉を開ければ、いつもとなんら変わりの無い店の内装と音楽が僕を出迎えた。 この店によく合ったテンポのゆっくりとした曲が店内を包み込む中、 僕が職場であるこの店のキッチンに足を踏み入れる前に、 いつもなら明るく砕けたような声の主であるキャシーが声をひそめて言った。

「チハヤ、なるべくしずかに頼むよ」

何故僕がそんなことを指図されなければいけないのだ、とキャシーに視線を送ってみる。 すると、キャシーは何も言わずに人差し指を口に当てて、しー、とだけ言って視線を奥の方の席に投げつけた。 それにつられて僕もそちらへ目を移す。 その席にはもはやこの店の常連になったヒカリが机にもたれかかって寝ている姿があった。 それで今のキャシーの行動に納得がいった。

「…ああ、そういうこと」
「なんかすごく疲れてたみたいなんだよね。すぐに寝ちゃったから」

キャシーはまるで我が子を見るような、優しくて暖かな視線をヒカリに送っている。 その理由はわからなくはない。 なぜなら僕も無意識のうちにヒカリに向ける視線がそうなってしまうからだ(その指摘はキャシーから受けた)。 なんだかふんわりとしていて、どうにも心配してしまう。 それはきっとヒカリの親友であるキャシーはもちろん、 この町の住人なら誰もが感じることだろうと思う。

「どう思う?起こしてあげるべきかな」

このまま寝かせてやってもいいが、あんな体勢で寝ていたらむしろ身体に疲れが溜まるだろう。 しかし、こんなに気持ちよさそうに寝てるのだ。 なんだか起こしてやるのも可愛そうな気がする。 というか、少々揺すったくらいでは起きそうも無いくらいに熟睡しているようだ。

「キャシー、君のベッド貸してやってくれるかい?」
「え、ああ、いいけど」

何をする気だ、と言わんばかりのキャシーからの視線が刺さった。

「じゃあ、部屋まで案内よろしく」

それだけ言って、僕はヒカリの元へ足を運んだ。 ヒカリの肩にそっと手を触れて、起きないかどうか確認してから彼女を両手に抱えるようにして抱いてやる。 起きてしまうかと思ったが、少し顔を顰めてすぐに安らかな寝顔を覗かせたので、ひとまず安心だ。

「…チハヤってさ、ヒカリに相当お熱なんだね」
「そうじゃなかったらこんなことしないよ、めんどくさい」

僕は至極めんどくさそうに顔をしかめたが、それでもヒカリを抱える腕強さはほんの少しだけ強めた。





「もうこんな時間か。にしても、ヒカリったらよく寝てるね」

キャシーが時計を見ながら言ったのを聞いて、僕も同じように時計に視線を向けた。 もうそろそろ閉店時間だ。 あれからまったく起きる様子を見せないヒカリだが、相当疲れていたのだろうか。 というか、晩御飯を食べないまま寝てしまっているのではないだろうか。 何か作ってやらなければいけないと思いながら、カウンターでグラスを磨いているハーパーさんに目を向けた。

「ハーパーさん、少し早いですけど帰らせてもらっていいですか?」
「ああ。ヒカリを送っていくのか?」
「ええ、まったく起きる気配もありませんから」

やれやれと、僕は呆れた表情を作った。

「ほんとヒカリってば愛されてるよね、羨ましい」
「なんだい、キャシー。妬いてるのかい?」
「まさか!まぁ、でも可愛い妹がとられたみたいで寂しいかな」

笑いながらそう言ったキャシーだが、なんとなく本心がまじっていたような気がする。 でも、僕だってそうそう譲る気はないけれど。 他人にここまで心を許すのも、一緒にいたいと思うのも、ましてや愛しいと思うことも、 ヒカリ以外にはありえないことなのだから。
キャシーの部屋からまだ夢の中のヒカリを背中に乗せて(キャシーに手伝ってもらった)、 ヒカリの牧場へと送るために店のドアに手をかけた。 すると、後ろから僕を呼び止める声がしたので起こしてしまわないようにそっと振り返る。

「チハヤ、送り狼にはなるなよ」

にやりと笑って言ったキャシーの表情がなんだかとても癪に触ったので、 僕はわざと艶やかな笑みを浮かべて一言だけ告げてやった。

「さあね」

扉の向こうは星空満点の夜空が広がっていた。 冬特有の突き刺さるような寒さが僕らを包み込んだはずだったが、 むしろ僕は暖かさを感じていた。 きっとそれは背中に感じる暖かな重みのせいなのだろうと考えて、思わず笑みがこぼれた。 ああ、きっと君が起きていたならこの夜空を見て喜ぶのだろう。 そしてきっとそんな君を見た僕も、今みたいな暖かな気持ちになるのだろう。 だって、幾千万と散りばめられた星々に心を奪われたどこかの魔法使いのように、 こんなにも僕は君に溺れてる。




090307. 陶酔ゲーム // 不在証明
チハヤの不器用な見えない優しさがとてもツボだった。